エヌ氏がひとり

あの日を思い出すためのブログ

原体験としての星新一

 

 

今週のお題「SFといえば」

 

星新一。

「SFといえば」で真っ先に浮かんだのはこの名前。

 

朝読書と星新一

小学生の頃、朝学活の前には10分間の「朝読書」の時間が設けられていた。

本は普段から読むほうだったので、朝から娯楽の時間を用意してくれるとはなんと親切なことか、と思っていた。

 

しかし時間は10分。

長編の小説を読むにはあまりに短く、続きが気になり授業どころではなくなってしまう。

そこで読んでいたのが星新一のショートショートセレクション。

およそ3,000~4,000字にまとめられた彼の物語は、10分間の朝読書とすこぶる相性が良かった。

なんといっても、10分のうちに1篇読み終えることができるのだ。

物語を読み終えたときの達成感、満足感、あるいは「どういうことだったんだろう?」という探究心。

そういったものを朝いちばんに浴びてから、1日の授業を受けていた。

今思えば、自分の機嫌を自分でとれる良きツールであったのだと思う。

 

素朴なSF

ショートショートセレクションは、結局シリーズ全15巻を読了した。

それは何よりもまず、彼の書く物語に惹かれていたからできたことだ。

 

星新一のショートショートは、どこかのだれかをそのまま切り取ったような、素朴な雰囲気をまとっているように思う。

時事ネタや固有名詞を用いないぶん、時代にも国にもとらわれない。

どこかのだれかに起こったある出来事を、淡々と語ってゆく。

それは味気ないと思われるかもしれないけれど、いつ読んでも色褪せない、確かな安心感と安定感がある。

公式サイトではその作風を「透明感のある」と表現しており(この表現の元は筒井康隆氏の評であるようだが)、まさにこの言葉がぴったりだ。

 

文体

加えて、文体にも魅力を感じる。

一文が短く言い回しもすっきりとした彼の文章は、何の違和感もなく自然と入ってくる。

これは幼少期の多くを彼の文章で育ったがための、主観的なものかもしれない。

とはいえ、彼の作品が小中学生から支持されているのを考慮すれば、客観的に見ても「読みやすい文章」のたぐいに入れて差し支えないのではないかと思う。

 

読んでいて特に印象的なのは、漢字とひらがなのバランス。

彼の文章は比較的ひらがなが多い。

当用漢字(現在の常用漢字にあたるもの)のみを用いており、当用漢字であってもひらがなで表記することは多々ある。

たとえば『殺し屋ですのよ』の冒頭における殺し屋のセリフ。

「むりもありませんわ。はじめてお会いするのですから。じつは、ちょっとお願いが……」

星新一『殺し屋ですのよ』より抜粋

これが

「無理もありませんわ。初めてお会いするのですから。実は、ちょっとお願いが……」

になると、とたんに「らしさ」が失われたように思われる。

 

「らしさ」とは何なのかという話になりそうだが、ここで「ひらがな」が失われたのは事実だ。

丸みを帯びたひらがなは、柔らかさや親しみやすさの印象を与える一面がある。

彼の物語は素朴な雰囲気をまとっている、と前述したが、そう感じるのは視覚的な理由もあるのかもしれない。

 

星新一からの影響

そういったわけで、彼からは大いに影響を受けている。

文章における原体験だ。

仮に自分が作家であり、「影響を受けた作家は?」と聞かれれば、「星新一」以外に答えるすべはないだろう。

どんなものを書くにしろ、いつだって彼の文章が根っこにある。

 

ブログの名前も例外ではない。

当ブログ名「エヌ氏がひとり」の「エヌ氏」は、まぎれもなく彼の作品へのオマージュだ。

サブブログ名「エヌ氏の裏側基地」も同様で、こちらはさらに作品タイトル『エヌ氏の遊園地』からとっている。

いずれも可能な限り更新を続ける予定であるがゆえ、ずっと愛せる名前をつけたかった。

 

「素朴さを持つSFに惹かれた」という観点ならば、Outer Wildsを好きなのも彼の物語が一役買っているだろう。

Outer WildsはSFアドベンチャーゲームだ。

タイムループをはじめとして、登場する技術はいかにもSF。

しかしいたって純朴な、「いつかのどこかの太陽系」の終わりを切り取った物語。

作り手の温かみや品の良さを感じるところも、共通した要素ではないかと思う。

 

おわりに

淡々とした日常の中に、ふと現れる非日常。

フィクションでありながらリアリティを感じる彼の物語が、文章が、何歳になっても大好きだ。

幼いころは気付けなかったことも、大人になった今なら気付けるかもしれない。

そのことに期待しながら、本棚に全集を並べる日を夢見ている。